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2008年4月13日 (日曜日)

東方諏訪旅行記-5 守矢史料館(後編):守矢家の過去と現在

■諏訪旅行日記:目次へ(バックナンバーへのショートカットがあります)
 [上:mixi版/下:守矢神社版]

 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=767517863&owner_id=6040004

 http://september.moe-nifty.com/kikyo/2008/04/post_d107.html

■守矢家について

 引き続き、守矢史料館編。今回は守矢家についてです。

 今回判った事を書く前に、とりあえず、おさらい?として、既知の情報を書いておきたいと思います。

・守矢家は洩矢神の子孫にあたる。
・諏訪大戦で洩矢神は建御名方神に敗退したが、子孫は筆頭神官「神長」として存続した。
 建御名方神の子孫…諏訪家(大祝)
 洩矢神の子孫………守矢家(神長)
・そのため、「大祝」(おおはふり:現代語では「おおほうり」と発音)は守矢家ではなく、諏訪家の血統。
・「風祝」(かぜはふり:現代語では「かぜほうり」と発音)は「大祝」の一時期使われていた呼び名の一つらしい。

・「大祝」は成人前の子供が即位する事が多かった。
・各種の神事で、神(ミシャクジ神)を降ろしたり、神と話す力は神長だけが持っていたため、実質的な権力は神長が持っていた。
・「神長」は一子相伝で、神事に使われる秘伝等は口伝で伝えられてきた。
・…が、明治5年に明治政府によって世襲神官制が廃止になり、「神長」職も廃止になった。
・翌年、守矢家に伝わる神具の多くが諏訪大社に移された。
・76代当主、実久氏は、秘伝が失われる事を惜しみ、その一部を77代当主、真幸氏に伝承した。
・77代当主、真幸氏の孫が現78代当主の早苗さんだが、秘伝の伝承は行われず、一部書き残されたもの(系図等)を除いて、全て失われてしまった。


 このあたりは事前に調べて知っていたのですが、個人的に思ったのが「明治維新の時もいろいろあったんだなぁ…」ということでした。この手の「神社系が締め付けられる」的なイベントは、先の大戦後(昭和20年代)ならまだ「ありそう」な感じで納得行くのですが、明治維新の際にもこうした事が行われていたのは意外でした。いや、明治維新期に廃仏毀釈等があったのは知っていますが、どちらかと言えば神道は「優遇された側」かと思っていたので…。私もまだまだ、勉強や調査が足りないようです。
 この手の場合、他の伝統的な名跡でよく見られるような、制度的には世襲が廃止されても、結局はその職を継ぐのは代々その一族…という「制度上廃止されても実際には世襲が続いている」というパターンになりそうな気もするのですが、そうはならなかった様ですね。現地での信仰の強さを見てくると、どうしてそうならなかったのか不思議でなりません。

 もう一つ疑問だったのが、明治以降に急速に秘伝の伝承が失われていくわけですが、特に、先代の昌幸氏→現在の当主:早苗さんへの代替わりの際に伝承が途絶えてしまった事です。これもいろいろな原因が考えられますが、こちらについては今回の守矢史料館訪問+その後の調査で、ある程度の答えが判明する事になりました。


 さて、前置きが長くなりましたが、その後の調査で判明した事は、以下の通りです。


・この史料館は、守矢家に伝わる資料を現当主・守矢早苗さんから茅野市が寄託を受けて建設されたもの。
・史料館の敷地は、守矢家の敷地の一部を茅野市に売却したものを使用している。
・史料館の建物は、地元出身で早苗さんとは幼馴染の建築家・藤森照信氏が設計した物で、藤森氏にとっては処女作にあたる。
・その藤森照信氏に名前を付けたのは、守矢家の先代当主、守矢真幸氏(早苗さんの祖父)。
・この建物は「守矢史料館」としてよりも「藤森氏の作品」として有名で、来館者のほとんどが「建物としての守矢史料館」を見に来た建築系の見学者。
・来客者の頻度は平均すると一日10人弱。年間3000名程。

・先代、真幸氏(77代)は、先々代当主で明治維新当時の当主・実久氏の弟。
・早苗さんが当主になったのは先代(祖父・真幸氏)の遺言によるもの。
・史料館の館長さんは市の職員?の方で、守矢家とは無関係の人物。
・早苗さんは現在主に東京で働いている(数年前に退職する前の上一色南小学校長時代の記事は調べると結構出てきますね)ので、地元の行事は比較的ノータッチっぽい?

 http://www.edogawaku.ed.jp/kamiisshikiss/index/rekisi/rekisi.htm

 http://www.city.edogawa.tokyo.jp/wadai/kaminan.html

 http://www.tfm.co.jp/earth/program/index.php?year=2004&month=11&day=11

 そんなわけで、守矢家に伝わる伝承が失われた理由は上記の通りなわけですが、上記の事実から、何らかの理由で「先代の真幸氏が伝承しなかった(できなかった)」事が伺えます。そうなると、その「何らかの理由」が気になるわけですが…、それは、守矢家の身内ではない部外者の身で詮索が許される範囲を超えている気がします。
 ただ、古来から伝わる伝承がこの平成の御代では失われている事を、惜しむのみです。
(それでも、この地には「失われずに残っている」ものがとても多い事を、各所の史跡を回って肌で感じる事になるわけですが、その辺りは今後の回で改めてレポートしていきたいと思います)

 後は気になったのが、来客者の少なさですね。年間3000人という事は、入場料が100円なので、一年間の収入が30万円しか無い事になります。係員さんは一人しかいないわけですが…それでも、どう考えても赤字です。
 黒字になるためには、もう一桁来客が増えないと無理だと思いますが、こう言うと何なのですが、あの立地条件と展示内容では(御柱祭の年等に一時的に増えるのはともかく)そこまで来客が増えるとは到底思えません。
 最近、所謂「箱モノ」設備の見直しが進んでいますし、収支的に言えば真っ先に統廃合の槍玉に挙がりそうです。私も個人的には余計な箱モノはどんどん潰せ派なのですが、できれば守矢史料館には残って貰いたいですね。貴重な守矢家伝来の品を伝える収蔵庫的な側面が強いので、上の方にそのあたりを汲んで貰って、いつまでも残ってくれればと思います。


■守矢史料館と建築家:藤森照信氏

 …さて、いろんな事を考えながら守矢史料館を一通り巡り、お手洗いに立ち寄ると…窓から見える外の景色に、何か違和感が。
 よく見ると、何だか怪しげな建物が近くに経っているのが見えるのです。
 写真は外に出て、裏手の「御頭御社宮司(ミシャグジ)総社」から撮影したものです。本当にすぐ近くにあるのが判っていただけると思います。

Photo


 …何ですか、この建物は? 何で木の上に家が建っているのですか?
 鬼太郎ハウスですか? 守矢一家は幻想郷に去りましたが、鬼太郎一家はまだこっちの世界に残っていたのですか? というか、それ以前に鬼太郎一家は守矢家のご近所に住んでいたんですか?
 疑問に思って係員さんに聞いてみると、件の建物は「高過庵」(たかすぎあん)。この守矢史料館と同じく、建築家の藤森照信氏が建てたものだそうです。
 私も誰それ?と思っていましたが、建築作品の数々を見ると、見たことのある建物がありました。…タンポポハウスとニラハウスです。あれを作った人だったとは…

(高過庵)
 http://architecturephoto.net/syasin/006/006.htm
 http://rempei.web.infoseek.co.jp/photo/kiji/033takasugian.htm

(タンポポハウス)
 http://tampopo-house.iis.u-tokyo.ac.jp/fujimori/work2.html
(ニラハウス)
 http://tampopo-house.iis.u-tokyo.ac.jp/fujimori/work3.html

 この藤森照信氏、この守矢史料館のある地元「茅野」の生まれだそうです。東大教授で、建築史家を経て建築家としての活動も始め、守矢史料館(平成3年築)が記念すべき処女作になるそうです。近くにあった「高過庵」は平成16年築という事で、比較的最近の作品になりますね。
 守矢家の現当主、早苗さんとは幼馴染みで、守矢史料館建築の仕事も早苗さんの紹介によるものの様です。また、小学校の校長時代にも課外授業?の講師として招かれていたりと、現在でも交流がある様ですね。

 http://www.ecoflow.jp/blog/01/61.php

 こうしていろいろ調べてみると、色んな所で思わぬ繋がりがあったりして興味深いです。

 ……そんなわけで、話題が寄り道して東方と関係が無くなってしまいましたが、守矢史料館を後にして、旅行を続けたいと思います。
 次なる目的地は、いよいよ諏訪大社。徒歩で1~20分ほどの所にある、上社本宮です。

■参考書籍
「神長官 守矢史料館のしおり」(守矢史料館販売書籍)
「ザ・藤森照信」(株式会社エクスナレッジ)

 「守矢史料館のしおり」は改めて説明するまでもないですね。守矢史料館に行かれた際には買っておいて損は無い本です。

 「ザ・藤森照信」の方は、参考図書を捜して検索をしている際に、件の「高過庵」が表紙だったのでネット購入した本です(取り寄せてから気づいたのですが、実際には表紙の建物は「高過庵」とは別物でした…)。
 この本では、藤森照信氏の建築物についてそれぞれの依頼者が文章を寄せており、その中には「守矢史料館」の依頼者である守矢早苗さんのコメントも載せられています(その他の依頼者には細川元首相や養老孟司氏など錚々たる面々が…)。コメントの内容も興味深いですし、本自体も面白いです。興味のある方は是非手に取って見て下さい。

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コメント

はじめまして。

 諏訪旅行記、バックナンバーも含めて楽しく拝読いたしました。実際に見てこられた方のレポートはとても興味深いです。

 このエントリで紹介されていた『ザ・藤森照信』に、ほんのちょっとですが関わっていたこともあり、コメントさせて頂きました。
 今後の更新も楽しみにしています。

投稿: 摸捫窩 | 2008年4月22日 (火曜日) 03時01分

>摸捫窩さん
 はじめまして。コメントありがとうございます。
 諏訪旅行日記は既に旅行から一月経っていますが、なかなかネタが尽きずに引っ張りつづけております…。現在の予定では更にあと一月ほど続くと思われますので、また読んでいただければ嬉しいです。

 実は私も摸捫窩さんのサイトを最近知りまして、時々見に行かせていただいておりました。特に最近は早苗さん関係の考察記事ということもあり、毎日楽しみに拝見させていただいております。
 改めて、バックナンバーを見ると…本当に「ザ・藤森照信」の本に携わっておられたのですね。私がこの本を購入したのは、表紙が高過庵だった(と勘違いした)からという適当な理由だったのですが、不思議な縁?もあるものです…。

 日記の連載、これからも楽しみにしております。お仕事がお忙しいようですが、体調に気を付けてこれからも頑張って下さい。

投稿: 桔梗屋長月 | 2008年4月23日 (水曜日) 05時40分

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