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2009年9月23日 (水曜日)

東方竹取物語考察 7:難題「蓬莱の玉の枝」前編

■東方竹取物語考察:目次
 http://september.moe-nifty.com/kikyo/2009/05/post-f11c.html

■難題「蓬莱の玉の枝」(藤原不比等)

【藤原不比等(ふじわら・の・ふひと:659[斉明天皇5]-720[養老4])】

 摂関家藤原氏の二代目(後述する通り、実質は彼が初代)。中臣鎌足の次男。
 名前は「史」(ふひと)と書かれてある文献もある。
 母親は車持与志古娘。母親が車持氏の出身だったため竹取物語では「車持皇子」と描かれていると考えられている。一部の史書に「出生の公開に憚られる事あり」の既述があり、天智天皇の落胤説がある(その事もあって竹取物語では「皇子」扱いされている)。
 16歳年上の兄(長男)に僧定恵。才能を見込まれ12年間に渡り唐で学んだ後帰国し、将来を嘱望されていたが、その直後(不比等が7歳の時)に毒殺される。

 天智天皇8(669)年、父、鎌足が死去(不比等は当時11歳)。
 弘文天皇1(672)年、壬申の乱で実家の中臣家が壊滅状態に(後述)。
 持統天皇3(689)年、31歳でようやく従五位下となり、その後じわじわと出世。
 同年、草壁皇子の死に際して軽皇子の将来を託される。
 持統天皇11(697)年、軽皇子(文武天皇)が即位。娘の宮子を入内させる。
 大宝1(701)年、大宝律令制定の功績で大納言に昇進。
 同年、宮子と文武天皇との間に首皇子(聖武天皇)誕生。
 和銅1(708)年、右大臣に昇進。
 和銅3(710)年、平城京遷都を主導。
 霊亀2(716)年、首皇子に娘、光明子を嫁がせる。
 養老4(720)年に死去。正一位太政大臣、文忠公、淡海公を追贈される。
 神亀1(724)年、首皇子が即位し聖武天皇に。光明子は皇后となった。
 以降、紆余曲折を経て藤原氏は摂関家として繁栄へと向かっていく。


 皆様ご存じ、摂関家藤原氏の偉大なる二代目。もこたんの父、藤原不比等が満を持して登場です。
 一般では中臣(藤原)鎌足の子というイメージが強く、大化改新で功があった父鎌足の後を継いで順調に権力を固めた様に思われていますが、実はそんな事は全く無く、かなり大変な前半生を送っています。

 上にも書きましたが、
・父中臣鎌足は彼が11歳の時に死去(父鎌足が40を越えてからの子供だった)。
 そのため、父親の庇護下での出世はできなかった。
・聡明な事で知られ、健在なら大きな助けとなったであろう兄定恵は、不比等が7歳の時に才能を妬んだ百済人によって毒殺される(死亡時期については諸説有り)。

 ……というわけで、父も兄も彼が子供のうちに死去。
 どうも、兄定恵が聡明でかなり期待されており、順調に行けば後を継ぐっぽかった(その割に仏門に入っているのがよく判りませんが、当時は出家=俗世から離れるでは無く、遣唐使の際に身分上有利…等があったのかもしれません)のですが、帰国直後に暗殺されて、「代打」となりうる次男の不比等が成長する前に父の鎌足が死んでしまった、という感じです。父鎌足がもう少し長生きしていれば、鎌足の存命中に庇護下で出世して力をつける、という世襲パターンに持ち込めたのだと思いますが、残念ながら間に合いませんでした。

 そして、父の死から3年後に、一族を危機に陥れる大事件が訪れます。
 「壬申の乱」です。

 弘文天皇(大友皇子:実際に即位したかは現在も論争の的で、天皇号は明治時代の追諡)と天武天皇(当時は大海人皇子)が皇位を争った戦乱です。
 彼自身は若かった(乱発生時は12歳)ので巻き込まれませんでしたが、実家の中臣家は負けた大友皇子側に付いて壊滅状態となりました。
 大友皇子側に彼らが付いたのは、鎌足が大友皇子の父(天智天皇)の側近だった事も勿論ですが、乱の時点では大友皇子側が「官軍」であった事からの当然の?成り行きだったと考えられます。
 ただ、乱後に即位した天武天皇が行った大友皇子側に対する戦後処理は概して寛容なものだったのですが、その中でも当時の中臣家の中心的存在であった右大臣・中臣金(なかとみのかね。鎌足のいとこ)は当時の近江朝側の高官たちの中でただ一人、戦後に処刑されています。前回取り上げた石上麻呂も大友皇子側で、彼は最後まで大友皇子側に付き従って自決した大友皇子側の首を持参したりしていますが、それでもその後重用されています。その事を考えると処刑、というのは極めて重い処分です。大海人皇子排斥の急先鋒だったためとも、壬申の乱における大友皇子側の実質的な指導者だったからとも言われています。
 そんなわけで、父は早死にするわ、その後の内乱で政権がひっくり返って一族の代表が処刑されるわという悲惨な状態に。父、鎌足が築いた功績は全て帳消し状態。「親の七光」などありえない(むしろ鎌足の子供であるということがマイナスに働く事もあり得る)状態で不比等の時代になります。


 そんなわけで、彼は何の後ろ盾もなく、自力で出世するしかありませんでした。
 彼がようやく貴族階級の入口…従五位下になれたのは、31歳の時です。

 が、この後彼は、前述の年表にある通り、トントン拍子に出世。後の摂関家、藤原氏の基礎を固めます。
 31歳の時に彼は従五位下に過ぎなかったのですが、その年にはいきなり草壁皇子に「黒作懸佩刀」を下賜され、軽皇子の将来を託されます。
 その刀は後に軽皇子(文武天皇)、更にはその子、首皇子(聖武天皇)の手に渡り、不比等は両帝に娘を入内させるなど、後見人的な地位を得て、権力の座を固めていきます。
 ほぼ後ろ盾が無い状態で、何故彼がここまで出世できたのか? 何故従五位下なのにいきなり皇子から刀を貰ってるのか? 昔からこの点は大きな謎とされていますが、持統帝か草壁皇子の深い信任を得ていたと思われます。
 ともあれ、明らかに中~下級貴族からのスタートでありながら、ハンデを克服して最終的に巨大な権力を得た不比等の能力が極めて高かった事は間違いないと思われます。


 ……と言う感じで、不比等の半生を書いているだけで随分長くなってしまいました。肝心の難題については次回に回したいと思います。
 気がつけばここまで輝夜も妹紅も全然出てこなくて、東方と全然関係が無くなっていますね。とりあえず、不比等については今回いろいろ書きましたが「そんな事をやっている裏で、もこたんを作っていました」という点が(東方的には)重要なポイントとなります(笑)

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